デルタの西の端に緑色のコントラストをつけるのが指月山である。デルタの端になぜ突然緑色の山塊があるのかといえば、やはり長年城山として保護されてきたからである。手つかずの「自然」なのだ。 萩の沖の日本海には、暖流の対馬海流(つしまかいりゅう)が流れ、指月山は、東南アジアなどで分布するサザン…
萩のデルタは有名で、近くの田床山(たとこやま)からながめる風景はテレビや観光雑誌で萩の顔になっている。しかし、本州の西の先山口県になぜこんな立派なデルタができたのか少々不思議である。 デルタを生んだ阿武川は、長さ82kmで、中国地方の中心広島平野をつくった太田川の103kmと比べても…
高杉晋作と言えば「奇兵隊(きへいたい)」である。文久三年(1863年)五月攘夷決行を行った長州藩に列強が攻撃、敗北すると、藩は守りの姿勢に転換を迫られる。そこで登場するのが晋作である。晋作は、六月藩主に藩の正規軍「先鋒隊(せんぽうたい)」を補うための軍隊である「奇兵隊」の結成を進言し自ら総督…
奥番頭(おくばんとう、時代劇では側用人)だった晋作が野山獄という牢屋につながれたとは、ちょっと考えられない。余程悪いことをしたんだろ。それがしたのである。藩主の命令もないのに上方に脱走した罪だ。 文久三年(1863年)、長州藩は下関で外国船を砲撃し攘夷を決行する。外国勢力の反撃にもろくも敗…
高杉晋作が、吉田松陰が主宰する松下村塾に入門したのは、十九歳の安政四年(1857年)九月ごろのことであった。当時萩では、密航失敗の後幽閉中の松陰が塾を開いていると噂になっていたようで、過激な尊王攘夷思想を教える塾は、藩の高官を務める晋作の父の家などでは、通ってはならない学校であった。 …
晋作は、明倫館で学んでいたころ、机について学ぶこと(文学)よりも武術に熱心に取り組んでいた。 松下村塾で学ぶまでは自分は武で身を立てようと思っていたほどだ。特に弓術には優れており、十四歳の時、藩主の跡継ぎである世子の前で百本中九十本命中する腕前だった。また、内藤作兵衛から剣術を…
晋作は、一人息子ということもあり大事に育てられた。 幼いころは病弱だったので、母のミチが近くにある円政寺で晋作の健康を祈り、寺にある金毘羅社(こんぴらしゃ)の巨大な天狗面を見せて「肝試し」、立派なサムライになるように祈った。 しかし、当の晋作は喜んで見に行ったというから、…
高杉晋作は、天保十年(1839年)萩城下呉服町の菊屋横丁(現在の南古萩)で生まれた。 家伝によると、高杉家の先祖は、戦国時代尼子家(あまごけ)の家臣であった武田小四郎春時である。尼子氏が毛利元就に敗れると、春時は元就に仕え、備後国高杉村(現広島県三次市)に住み姓を「武田」から「高杉」に…
須佐の高山を挟んで西が須佐湾なら東には江崎湾がある。約1500万年前マグマの活動で高山ができた時のくぼみが、海面の上昇とともに西側に須佐湾をつくるなら、東側にはもう一つの須佐湾、江崎湾をつくったのである。 江崎湾も風光明媚で、湾の沖合には名島(なじま)(「借島(かしま)」ともいった。)…
明治以降の須佐では、久原房之助(くば[は]らふさのすけ)をおいては語れない。 久原家は、江戸時代、代々須佐の村役人である浦庄屋(うらじょうや)や御用商人などを務めた。ところが、文久三年(1863年)房之助の祖父半平(はんべい)が、侍の手にかかりむごい殺され方をする。 実はこの年、米の…